最近見た映画(ほぼ呪術廻戦0の感想になった)

本ブログでは以下の映画のあらすじその他様々な要素を含むため、
それを見て困られる方は読まないことを強くおすすめします。
ラストナイトインソーホー、ハウスオブグッチ、呪術廻戦0

 

最近、映画館に行って映画を見るというアクティビティにハマっている。
前までは映像配信サービスで十分であろうと思っていたが、
映画館においては話せもしないし、スマホもPCも見ることができないため映画の世界に没入することができる。
2000円程度で2時間程度、没入体験を得ることができるというのはなかなか良いと思い、
仕事終わりに見に行っている。
幼い頃はなぜか暗闇が異常に怖く、映画館に行くのが苦手だったし行きたいとも言わなかったがいつの間にか平気になっている部分がある。
高校生の頃も大学生の頃もまだ映画館は怖かった覚えがあるので、なぜかは知らないが平気になってきているようでよかった。

最近見た映画がほぼ全て面白く嬉しかったので、記録として残しておきたくて見た順番に感想等を記載していく。

 

(ラストナイトインソーホー)
アニャテイラージョイのにわかファン(ただ顔面がかなり好みというだけ)だったのと、
女性同士の主演であったので結構ワクワクして事前情報を極力入れずに見に行った。
結論、個人的にはめちゃくちゃ怖いホラーだった。

ロンドンのソーホーで、エロイーズ(現代におけるヒロイン)が1960年代にタイムスリップして当時のソーホーで歌手を目指すサンディ(60年代におけるヒロイン)の立場でいろんなことを体験するというのが大筋。
単なる夢の中の不思議な体験であるタイムスリップから、夢がだんだん現実へ侵食して来るという王道展開であり、ここまでは意外性もないようなストーリーである。

エロイーズがファッションの勉強をするために田舎から出てきて、疎外感や孤独を感じている描写は個人的に共感するところが多かった。
ちょっとした周囲の人間の言動が気になってしょうがない、1人になれば楽なのではと思ってしまい寮を出てアパートを借りるエロイーズの気持ちはとてもわかる。
ネオンカラーで囲まれて発展して行くストーリーとサンディの美しくセクシーなショーは見ているだけでも煌びやかで美しかった。

歌手になりたいというサンディに近づく男はまあ当然に悪い人間で、歌手という夢をダシに彼女を性的に搾取する。
性暴力を受けたことのある人間ならかなり辛い思いをするであろう描写があり、正直私も直視ができなかった。

あとホラー描写がめちゃくちゃ私の心臓に悪く映画館を早く出たいという気持ちがかなりあったが、エロイーズがこの夢の中にいる意味とか理由ってなに!?という疑問があって最後まで見ることができた。

音楽には詳しくないが、聞いていて快い音楽ばかりだったのでサントラなどあれば買うかもしれない。おそらくではあるが、ラストナイトインソーホーの中で音楽はタイムスリップのための装置として働いている。

ショービズの世界で女性が性的に搾取される、というのはまあ珍しいことではないのだろうけどそれを同じショービズの世界で現在生きているアニャテイラージョイの演技もかなり良かった。
健やかで明るく美しいサンディからセクシーなのに陰鬱でしょぼくれているが美しいサンディへの変化はそう簡単にできるものではないなと思わされた。

細かいところで、演出が上手く全体に緊張感がある映画で見た後にはあっという間に感じた。
でもホラーは嫌い。

(ハウスオブグッチ)
レディガガ主演、その他もアダムドライバーアル・パチーノ、ジェレミーアイアンズ、ジャレッド・レト、ジャックヒューストンなど錚々たる役者が揃っており面白くないわけがないので見に行った。
クレジットで監督がリドリースコットであると気づいた。それはいい映画になりますわ。

宣伝文句が それは人を狂わすほどの名声 とかそういうやつだったんですが、
映画見たらそんなに狂っとったか?と個人的には思った。

レディガガ演じるパトリツィア・レッジャーニはまだご存命であり、実の娘2人に対して訴訟を起こしたりしてやりたい放題のご婦人であるがレディガガ演じるパトリツィアは一味違った。
グッチ一族の財産狙いでイケてない引っ込み思案な男と結婚し取り入った、という見られ方が一般的なのであろう。
レディガガのパトリツィアは純粋に夫のマウリツィオ・グッチを愛しており、愛しすぎて自分と夫を一体であるという風に考えるようになってしまったのであろうと思う。
だから夫が他の女性と過ごすのを理解できずに泣くし怒るし最後は人を雇って殺してしまうのだなと見ていて思った。
夫が殺された頃にノートに 天国へ と書きつけたのも単純に用無しになった夫を殺してやったぜという達成感よりも本当にいなくなってしまった、という悲しみや喪失感もあったのだろうと思う。


映画の中ではグッチの株式についての話が何度も出て来る。
いくら家族が円満でも株式を50%ずつで相続させるのは本当にダメだろ、どっちかをマジョリティにしないと何も決まらないだろと思うし外資ファンドに屈辱を感じながら株式を売るあたりはフィクションが強いが、オーナー社長とその親族でやってる中小企業のM&Aもこんなもんなんだろうなと思った。

グッチ一族の男たちが様々に、自分の考えるグッチとはこうだと主張していろんなことを行うのだけれど、トムフォードの圧倒的な才能には誰も勝てなかったんだなと少しかわいそうになった。

音楽も快いものばかりで、当時の流行だったのかなと思ったりした。

あと、レディガガの眼の演技が圧倒的だった。両眼を見開いたまま泡の浮いたバスタブに沈んでいくシーンは凄みのようなものを感じた。
グッチ着ていけばよかった〜と鑑賞後に思ったけど別にいいか。

 

(呪術廻戦0)※2回見た

週刊少年ジャンプで連載中の漫画の映画である。最近どハマりしているので2回見た。
少年の頃に結婚の約束をした女の子を目の前で交通事故で亡くし、その女の子に呪われてしまい周囲にも迷惑がかかってしまうため死んでしまいたい青年、乙骨憂太が主人公である。
呪いを解くために呪いを祓う呪術師の養成学校、呪術高専に入学するところから物語が始まる。
とにかく私は呪術廻戦に過去の経験と涙腺を刺激されやすく、めちゃくちゃ好きな作品である。


物語の要は、乙骨が呪われているのはなぜかということと、その呪いをどうやって解くかというプロセスである。
実は乙骨が呪われている訳ではなく、死んだ女の子(里香)を乙骨が呪いで縛り付けたというのが結末であり、縛り付けた方が呪いを解いたので里香は無事呪いから解放されるのだが、呪術廻戦0に散りばめられた思想に裏打ちされた台詞が良すぎてそれだけで済ませるのはそうは問屋が卸さないという気持ちである。別途でまた文章を書きたい気がするくらい呪術廻戦が好きなので、今回は台詞に限って書いてしまおうと思う。

 

1番最初に死にたいが死のうとしたら、
呪いとなった里香にナイフを結ばれちゃった乙骨に対して目隠しの怪しい男、五条悟が

でも1人は寂しいよ

力の使い方を学びなさい、全てを投げ出すのはそれからでも遅くはないだろう

と声をかける。
1番最初のシーンであるが、呪術廻戦の思想を端的に表現しており開始早々痺れてしまった。
自分に持て余す強大な力に戸惑い、自分を人から遠ざけることで自他を守ろうとするという規範とは別に気持ちがあるだろう、と指摘した上で、
力を使うことをやってみてそれでもダメであれば投げ出してしまってもよいという相手を全否定せず、あくまで自分の意見として伝えている台詞である。
また、五条悟が

これは持論だけどね、愛ほど歪んだ呪いはないよ

と乙骨に伝える台詞がある。
歪んでいるから悪いとか良いとかそういった評価とは別に自分の考えだけ伝える五条の配慮や人間性が見えるなと思った台詞である。

呪術高専で学び始めた乙骨と、呪具(呪いの込められた武具)使いである禅院真希が派遣された先で呪霊に飲み込まれてピンチになるのだが、その時に真希が

オマエ マジで何しにきたんだ呪術高専によ!
何がしたい!何が欲しい!何を叶えたい!

とブチ切れながら聞く台詞がある。
役に立たない乙骨に対する苛立ちや励ましの意味もあっただろうが、真希自身の置かれている状況に対して真希が自分に問い続けてきたことが容易に想像される台詞であった。

それに対して乙骨は

誰かと関わりたい 誰かに必要とされて 生きてていいって自信が欲しいんだ

と回答して、呪霊を祓うために自ら望んで里香を呼び出す。
冒頭の五条悟の1人は寂しいよ、に応える形での回答の台詞である。
おそらく初めて願望を口にし、具体的に行動し逃げることなく立ち向かうという行動を起こした乙骨の台詞であり、生きてていいという自信って何だろうなと考えさせらた。

呪術廻戦の世界では、
登場人物たちに呪いが見えて呪いに対抗できる能力がありその能力を磨くのは当然の前提に見えるが、
呪いが見えず能力もない人間も同時に存在する。(作品内では非術師と呼ばれる)
乙骨をはじめとした登場人物は問題を抱えているものの術師であるという時点で、
十分に能力がある選ばれた人間なのである。
この点について、非術師を蔑み皆殺しにすることを企む夏油(げとう)という人物も登場する。
後半において夏油が乙骨を殺害し強大な力である里香を奪うために戦う展開となる。

夏油は

結局 非術師は自分よりも秀でた存在から目を背けたいだけなのさ
数が多いというだけで強者が弱者に埋もれ虐げられることもある
そういう猿共の厚顔ぶりが吐き気を催す程不快だと 私は言っているんだ

と乙骨を説得するように(実際は殺すつもりなので説得ではないのだろうが)言う。
夏油の言うことにも一理あるなあと自分の経験を思い出していたが、夏油の言うことを受け入れられないなあと思う自分もおり、それはなぜだろうと考えていたが最終的にはどちらの評価基準を選ぶかという問題であり、意思決定の話なのだろうと考えた。
それに対して乙骨は

僕が 僕を生きてていいって思えるように オマエは殺さないといけないんだ

と回答する。
一度目の映画を鑑賞しつつここで考えが閃いた。
夏油も乙骨も呪術師であり、非術師と比べて相対的に優れた能力を持っている。
だから優れた強者を虐げる弱者なんて優れた能力を用いて害してしまえ殺してしまえ、私は人より優れているのだからという夏油と、相対的に優れていることを上手く受け入れられないこと・能力ゆえに他人を害することを自分の苦しみとして捉えそれでも自分が生きていくために自分の生き方を肯定できるようにするんだという乙骨はかなり対照的である。
これは1人の人間の中にある葛藤を夏油と乙骨というキャラクターに仮託させたのだなと私は捉えた。

結局、乙骨が勝利するのであるが私はまたここで自分の経験を思い出して乙骨が勝利してくれてよかったなあとしみじみ思ってしまった。
夏油には夏油の理由やそれに至る葛藤があることを単行本で描かれているので気になる場合は読んでみることをおすすめする。

 

映像と音楽がとても美しく、この監督が呪術廻戦0をどのように捉えているのかというのも随所に散りばめられた演出で何となく掴むことができたように思う。
前半の静かではあるがその孤独や身に染み入るような諦念を語る音楽、夏油と乙骨が戦う箇所の音楽(というかSE)は唸るしかできなかった。

里香は呪いが解けた後も乙骨と共に呪霊として過ごしているよう(cf.単行本)であり、乙骨が呪いをかけなくても愛しいと思った人は自分と共に在ることができると言われているようで私は嬉しく思った。
愛しいと思った人間に対する気持ちはその重大さから自分本位になりがちであり、それを相手が受け入れてくれるかといった不安から相手や自分を傷つけることもある。
相手が死などの別離によってその身体や精神が側になくとも、自分の中に愛しい人は確かに存在し、自分に力を貸してくれたり強さのもとになったりする。
あまりに強い気持ちは時に自分や他人を害するが、自分がどう生きるか、どう生きたいか、何を目的としているかということを問うことによってその気持ちを飼い慣らし自分の強さや力にしていく、そういったことの繰り返しではないか、乙骨の物語はそれを描いているのではないか、そう考えた。

 

呪術廻戦がとても好きなのでこれから何かしら文章を書く気がする。
作品に描かれている物語に強く共感するタイプの作品もあるが、呪術廻戦は自分の過去の経験などに投射して再評価をすることにより、新たな救いを齎してくれる作品である。

 

ほぼ呪術廻戦0の感想になってしまった。