京都ってなに

友人に会ったとしたら、近況として何を話すかということを考えた。


だいたいしょうもないことだったりするのだけれど、やはり人に話すということはアウトプットの中でも最も気を遣うし頭も使う。それになによりも修正ができない。

 

最近はとにかく京都に帰りたいという気持ちが強く、休日は図書館に行って旅行本を眺めるか買い物に行くか美術館で作品に没頭するかのどれかしかしていない。

 

京都がどういった存在であるかはよく考えるが、学生時代のなつかしさよりも今の自分になる前の剥き出しの自我の一部を置いてきたような気がしてずっとそれを確かめたくてでもそれがどこにあるかわからなくて京都に帰りたくなるのだろうと思っている。

あと、京都にいる私は東京にいる私よりも優しい気がしているしゆっくり話すしよく考えて話すし洋服を丁寧に選んで着ているし丁寧にお化粧をしているし気前がいい。
別に東京が悪の都であるとは思っていないけれど流れている時間が決定的に違うし、全てが資本主義によって決定されていない気がする。気がするだけだが。

最近よく思っているのは、学生時代でも何でもいいが京都で過ごしたことがあり現在東京で働いている人と京都に帰りたいということ。
別に似通っているものがなくたって、自分が感じていることと他人が感じることを並べてみたいのだと思う。
仕事でマネージャーになりそうとか仕事っぽい悩みとかそういうものが切実になりつつあるからかもしれない、人を育てるとか人と接して育ってもらう(?)みたいなことは自分がどうやって育ったんだっけ?とかどういうことが自分の根本にあるんだっけ?みたいなことと少なくとも自分の中では密接にかかわっているから。

 

夜の鴨川で煙草を吸いながら彼女と別れるかもしれないと話していた友人は、その彼女と結婚し子供ができて離婚した。他人の人生だからか、その顛末よりも寒くてキンと冷えた空に立ち上る煙草のけむりの美しさをよく覚えている。

夜通し鴨川で話して朝を迎え嘘のように青い朝焼けを共に見た友人は音信不通となり生死さえもわからない。二度とあの青い朝焼けを見ることはできないだろうという確信だけがある。

すべてが嫌になって死ぬなら鴨川だと思って走って来たはいいがバカ騒ぎする集団の近くで死にたくないと思って諦めた日もある、そういうくだらない虚栄心なのか自尊心なのかそういったものと嫌というほど向き合わされたこともよく覚えている。

たぶん平安貴族でも恋に破れたり権力闘争に敗れたりして千年前の大路で自分と向き合うこともあったのではないかと考える。

 

今は本当に京都に帰りたい以外の気持ちがない。

東京で働いていて京都にいたことがある同志がいたら声かけてもらえると嬉しいし喜ぶしともに京都に帰ろう。