しがみつきたいもの

その時にどうしても欲しかったり、執着してしまうものについて考えてみた。

これについて考えたことを覚えておきたいと思うし、忘れても思い出せるようにこれを記す。

 

大学生になりたての頃、小学・中学・高校と友達のいない暗い人間だったためか、

すれ違えば挨拶や雑談ができる友人ができたことはとてもとても嬉しいことだった。

友人が多少無理を言っても、笑顔で「仕方ないなあ」と言える自分が、

18年間経験したことがなかったその状況が、大好きだった。

無理を言われても、そうしたくはないなあと思っても、友人がまたいなくなることと比べると、無理を遂行することややりたくないことをやる方がまだマシに思えた。

けれど、そうして無理をして笑ってごまかして大好きな自分を失わないために行動した結果、私はストーカー化した2人の元友人に向き合わねばならなくなった。

大好きだった友人を失いたくない、自分と一緒に笑ってくれる人を失いたくない、大好きな自分を失いたくない、どれが本心だったのかは当時も今もわからない。

 

社会人になりたての頃、美しい装いが大好きになった。

学生の頃から服装や持ち物には人より気を遣っていたつもりだったが、

可処分所得が増えればできることも増え、その分使うお金も増えていった。

出版社に勤めていたことも、それを加速させた。

打ち合わせで会ったデザイナーの爪にモンドリアンがあれば、アンディウォーホルを爪にのせるようネイリストに頼んだ。

隣の女性の靴にフェンディのロゴを見つけた日の夜には、ディオールのピンヒールを買いに走った。

自分の美しい白い肌には、どんな色彩も似合うように思えたし、高額のものを買えばその分だけ自分が強くなっている気がしていた。

けれど、サラリーマンである私は高所得者の愛人でもやっていない限り毎月ルイヴィトンのバッグも、ディオールのワンピースも、シャネルのリングも買えないことに気づいた。

周囲にいる役員たちの愛人に憧れて、強くなった気になっていた自分が急にとんでもない愚か者に思えてならなかった。

必死に頭の中で税額を計算して手に入れたバッグも靴もワンピースもアクセサリーもスカーフも時計も、ただの光るゴミにしか思えなくなった。

 

その時どうしても欲しくて、何よりも欲しくて、執着したもの、

学生の頃は友人、社会人2年目までは美しい装いも今はそんなに欲しいものでなくなった。

友人は自分の考えや行動規範に合う友人しか付き合わなくなったし、ブランド物はほぼ質に入れて現金にした。

 

振り返ってみると、割とどうでもいいものに必死になってしがみついて、みっともないこともしていたように思う。

今は、何にしがみつこうとしているのだろう。