理性と狂気

内容がタイトル負けする気しかしないタイトルを付けてしまったが、これ以外に思いつかないので進める。

 

私が生存してきた中で、最も理性と狂気が戦っていた時期がある。

病名は控えるが精神疾患があった時期である。

ありきたりではあるが、新卒入社した会社での大変な業務負荷とハラスメントの嵐が原因だった。

 

最初は幻聴や物忘れが激しくなるといった症状があったが、

徐々にないはずのものが見える、という幻覚症状が出てしまった時にはさすがにまずいと思い病院に行った。

今でも時々見えるが、切り落とされた人の腕や脚が視界の端に現れたり、地下鉄の天井を黒い生物が這い回り私を追いかけてくることがあった。

このような幻覚たちは、精神疾患の治療が進むにつれ少しずつ減っていった。

 

通院や治療をする前は、そういった幻覚たちが怖くて怖くて、それこそ地下鉄の駅に行けなくなるくらいに怖かった。

私の理性が「人の脚や腕はない」「何も追いかけてきていない、見てみろ」と言う度に私は幻覚と向き合うことに恐怖し、泣く以外に何もできなくなってしまっていた。

私はそれまで、私の理性は私の身を守り、私に利益を与えるために私が磨き続けてきた武器であり強力な味方であると思っていた。

その私の理性は、私の「幻覚が見えるのだ」という私の身体を、感覚を否定し、「そんなものはない、お前がおかしいのだ、何かの間違いなのだ」と私を苦しめ続けた。

包丁の切っ先のように鋭く、刺さると赤い血が噴き出す様を想起させる理性の切っ先が、私を小突き狂気の淵へと追い詰めていった。

もう狂気の淵へ落ちるしかない、狂ってしまう以外に方法はない、そう思った時に狂気が手を伸ばして「狂気と共存すること」を教えてくれた。

 

「切り落とされた人の腕や脚はあるかもしれない、せめて踏まないようにしよう」

「地下鉄の天井には黒いものがいるかもしれない、次に会ったら触ってみよう」

「地下鉄の天井に黒いものがいっぱいいる日はバスかタクシーを使おう」

自分で少しずつ解決の方途を見つけられたタイミングと、治療のタイミングが良かったのか、回復は早かった。

 

今でも幻覚が見えたりすることもあるが、それまでのように昏倒したり過呼吸になったりすることはほとんどなくなった。

理性は私の財をなすために役立ってくれているし、狂気は理性を牽制する存在として、私の中でうまく共存してくれている。