京大立て看板について

京都を離れて1年以上経つが、京都の動向は新聞やウェブニュースで京都のワードを発見する度にチェックしてしまう。

現在、主に朝日新聞において報道されている「京大立て看板撤去」について考えたことを忘れないように、忘れてもこれを見て思い出せるように記しておきたい。

 

朝日新聞(デジタル版、2017年11月25日)によると、

 朝日新聞が入手した文書によると、京都市はこれらの立て看板について、常時あるいは一定期間継続して屋外で公衆に表示される「屋外広告物」に該当すると判断。市の屋外広告物等に関する条例が設置を禁じている擁壁への立てかけや公道の不法占用に当たり、市長の許可も得ていないと指摘している。

 屋外広告物法は広告物の規制基準を定め、実際の規制は自治体が条例でそれぞれ行っている。京都市は条例で市全域を禁止地域や規制区域に指定しており、設置する場合は大きさや色などを審査し、市長が許可する仕組みだ。2007年、古都の景観を守る目的で新景観政策を打ち出し、厳格な適用を進めている。

 京都市広告景観づくり推進室は「条例違反の屋外広告物については順次、厳正に対応しており、京大への指導はその一環。京大といえども、特別な存在と認識していない」と話す。周辺住民の一部からは「立て看板は市の景観政策に反している」とする苦情も市に寄せられていると説明する。

 京大関係者によると、市の指摘を受け、大学は11月中旬、対策案を学内に示した。設置場所は大学構内を中心にし、設置できるのは公認団体に限定。大きさや設置期間の基準をつくるといった内容だ。

 

とのことであった。

京都市の条例は、京都市内にある京都大学もその対象であるということについては行政法の観点からは特段違和を感じるものではない。

また、国立大学法人であるといえども京都市からの行政指導等を看過してよいという理屈もおそらく立たないであろうと推測する。

行政代執行法第3条に定める手続きを踏めば、基本的に行政の行う強制執行は適法なものであると判断される可能性が高い。

行政法関連についてはあまり明るくないのでこのくらいの言及にとどめたい)

 

しかし、適法であるから立て看板撤去に反対するのはおかしい、という論は一種の思考停止であると私は考えている。

 

現在の京都大学の事情に明るくないので、京都大学を主語にして話をしたくないというのが本音でもあるが、私が学生の頃に学んでいた分野において、私なりに京大立て看板について考えた。

 

まず、立て看板の定義とは何であろうか。

壁に立てかける方法もしくは何らかの用具で固定または接着等の方法にて設置され、かつその表面に表示がなされているもの というような定義はできそうである。

これを京都市屋外広告物法に定める「屋外広告物」であると解釈をしたようである。

そしてその屋外広告物について、条例に定める基準に反しているという理由をもってその是正を意味する、撤去を行ったと解釈できると考える。

 

また、朝日新聞の報道を追うと、

「タテカンだめなら『寝看板』京大らしい?攻防続く」(2018年5月9日)

「タテカンだめなら『垂れ幕』で 京大生らが対抗策」(2018年5月2日)

などの注目すべき記事を見つけた。

 私が上記2つの記事に注目したのは、前述の「立て看板の定義とは何か」に対する一部回答であるためである。

 

法哲学における概念で、core of certain と periphery of ambiguityというものがある。

直訳すると、確実の核 と 曖昧さの周縁 である。

これらは、法(実体法に限らない)において守るべきものは何か、ということを考えるときに用いられる枠組みである。 

 

例を挙げる。「駐車禁止」というルールがある。

これについては、概ね「自動車を駐めてはならない」という意味に捉えられる。そしてまさに、それがルールの核である。

しかし、駐車禁止のスペースに馬車や船、または一輪車、自転車を駐めることは許容されるだろうか。

「車という定義が曖昧なのでは?」と思った人は大正解、その通りである。

車に、馬車や船、一輪車、自転車が含まれるかはルールそれのみによっては導かれないのである。曖昧さを抱えたまま、核の周縁に存在することとなる。

仮に駐車禁止のスペースに船を駐めてよい、とすると当然、「何のために駐車禁止のルールがあるのか」という問いに行き着く。

 

つまり、「寝看板」「垂れ幕」は「立て看板」にあたるのかという議論は「そもそもこのルールの本旨は何であったか、保護すべき利益は何であったか」という議論に当然に繋がりうるのである。

 

「なんか京大生がまたよくわかんないことしてる」「ギャグセンス」で片付けていいことではないと私個人は考えているし、通告書や差し入れ書という形をとらず静かにルールに抗議するその姿勢は非常にスマートであるから、とても尊敬している。

 

京都市の施策が誤り、または違法であるとも思わないし、京大立て看板は撤去すべきだとも思わない。京大立て看板について何らかの解決策を提示したり、物申したりするつもりはさらさらない。

互いの主張を真っ向から譲歩案もなくぶつけ合うだけではどちらも譲らぬのは当然であると個人的には思う。

ただ1つ確実なのは、立て看板の撤去という措置に少しのアイロニーを含ませながら対抗している名も知らぬ人への敬意、という現在の私の感情だけであると思う。